教会員の体験談(救いの証し) Hさん

私がどのようにして 

まことの神様であるキリストに出会い、救われたかを

お話させていただきます。

 

私は、沖縄県で、

6人きょうだいの5番目として

生まれ育ちました。

 

家庭内に祖父と父の対立があり、

互いに「自分が正しい」と主張している姿を見て育ちました。

父は幼い頃に

祖父、祖母に捨てられ、叔父に育てられ、

辛い思いをしました。

 

その事があって、

祖父のようにはなるまいと家庭を守ってきたのに、

突然現われて親の顔をするなと言うケンカでした。

 

子供の私には、誰の味方というより、

父の思いも分かる、祖父の愛も分かる

というものでした。

 

「正しい評価や考え方、ものの見方は、

人間の世界にはなく、神様の世界にしかないのでは」

と考えるようになりました。

 

また、私は幼いころから、自分の内面をよく見つめました。

 

自分の中に

みにくさ、きたなさ、ダメさ、自信のなさ、ねたみがあることに悩んでいて、

自分を肯定することができずにいました。

そして、心休まるところを探し求めていました。

 

中学3年生の時にエホバの証人から神様の話を聞いて、

「神様はいるのだ。私たちを見ていてくださるのだ」

と思うようになりました。

 

当時の私は、

エホバの証人が聖書の教えから外れてしまっている

キリスト教の異端であることを

知りませんでした。

 

高校を卒業してから、

大阪にある病院に就職し、

働きながら看護学校へ行きました。

 

看護学校に通っていた時に、

キリスト教の宣教団体であるギデオン協会から

聖書をもらいました。

「求めよ、さらば与えられん。」(マタイの福音書7章7節 文語訳)というイエス様の言葉を読み、

「心休まるところ」や「正しい生き方」を求めていた私は

感銘を受けました。

 

そうした時に、

キリスト教のもう一つの異端である

統一教会の信者である友人に

「聖書の学びをしましょう」と声をかけられました。

 

当時の私は、

統一教会が聖書の教えから外れてしまっているキリスト教の異端であることを

知りませんでした。

 

統一教会の学びをしていく中で、歴史を学びます。

 

 

日本の韓国統治時代のことを学ぶ中で、

日本はなんと罪深いことをしたんだろうと

深く思いました。

 

その時は、この学びがすべて真実だと信じていました。

 

「正しさ」を求めていて、「間違い」をゆるせなかった私は、

統一教会を正しい組織と思って魅力を感じ、

信者になりました。

 

「(エバ国家である)日本は悪い国であり、

(アダム国家である)韓国に尽くすべき」

という統一教会の教えを信じていたこともあり、

韓国人が教祖である統一教会の活動に

積極的に参加しました。

 

そして、同じく統一教会の信者であった男性と結婚をし、

三人の子どもが与えられました。

しかし、時が経つにつれて、

統一教会について「おかしい」と思うことが出てきました。

 

一つは、

統一教会の教祖であり、「再来したメシア(救い主)」とされている

文鮮明の教えが、

だんだんと変わっていったことです。

 

教えが真理であるならば、時と共に変わることはありませんので、「おかしい」と思いはじめました。

 

そして、教えとして

「救いにお金が必要だから献金をしなさい、

そのための活動をしなさい」とか

「最低三人に伝道をしないと天国へ行けない」、

「組織によって結び合わされた夫婦になったら、

理想の世界を実現するために献金をしなければならない」

といったものが、どんどん出てきたりしました。

加えて、一時期は

「統一教会の教祖である文鮮明が、

私のすべてを見ていてくれて、理解してくれている」

と思っていましたが、

それが間違いであることに気づきました。

 

そういったことがあり、文鮮明の言葉に感動しなくなりました。

 

統一教会では「日本は悪い国、罪深い国」と教えていましたが、

日本にも良い面があることに気づき、

統一教会の教えに疑問を持ち始めました。

 

また、教会の人間関係の矛盾に気づき葛藤を覚えはじめました。

 

さらに、統一教会の信者の目標である、

自己の完成や理想の結婚、理想の家庭を実現することが

不可能ではないかと思うようになってきました。

 

これらのことが原因で、

私は統一教会の集会や活動に参加しなくなりました。

 

統一教会から離れた後、

エホバの証人の子どもへの教育に対する姿勢に

惹かれた時期がありました。

 

しばらくの間、エホバの証人の学びをしました。

しかし、「君が代や校歌を歌ってはいけない」や

「輸血をしてはいけない」

「子供に競争をさせてはいけない」

などの禁止事項に納得することができず、

学びをやめました。

 

もう宗教を信じることはやめよう、

自分の本心が正しいと思うことをしていけばいい

と思うようになっていきました。

 

(その一方で)家庭で、

夫の健康の問題、子供の問題が次々起こり、

悩んでいました。

 

そして、

「家庭や子どもなど自分に解決できない問題の解決(救い)は、

どこにあるんだろう」

と考えるようになりました。

 

ある時、インターネットの動画配信サービスであるYouTubeで

一つの動画を見つけました。

 

それは、

キリスト教のある牧会者が

私の出身地である石垣島を訪れて収録した動画でした。

 

そして私は

(異端ではない)キリスト教に関心を持つようになりました。

YouTubeの動画で聖書講演を聞いていくうちに、

聖書をもう一度学びたいと強く思うようになり、

この教会にたどり着きました。

 

教会の礼拝に参加し、聖書を読むことを通して、

異端ではないキリスト教、聖書の教えに基づいたキリスト教が

分かり始めました。

 

統一教会とキリスト教の違いはいろいろとありますが、

その中でも特に大きな一つは、

統一教会の救いが条件付きなのに対して、

キリスト教の救いが無条件だということです。

 

そのことが記されているエペソ人への手紙2章8,9節は、

私にとって大切な箇所です。

 

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。

それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。

だれも誇ることのないためです。 

 

また、

文鮮明とは違って、キリストが変わらないお方であることが

記されているヘブル人への手紙 13章8節も大切です。 

 

イエス・キリストは、昨日も今日も、

とこしえに変わることがありません。

 

キリスト教の神様、聖書の神様を信じるようになって、

物事を神様に委ねられるようになり、

過去のことをクヨクヨと後悔することが少なくなり、

楽になりました。

 

変わらない聖書の言葉、変わらない神の愛、

イエス様の十字架が私の罪の故であり、

十字架によって救われた者であることを信じ、

これからも神の御言葉を学び、

求め続けていきたいと思います。